2016年は、これまでの人生の中で最も悲しい経験をした年だった。僕をアイアンマンに誘ってくれた仲間であり、かけがえのない友人が、初めて挑んだレースで帰らぬ人となったからだ。
その時の言葉にならない想いを、同じように感じた仲間がいる。その仲間たちとは、なんというか、言葉を交わさずとも通じ合えるような何かが生まれた。
互いに同じことを考えているけれど、あえて言葉にはしない。そうした感覚を共有して、互いに前を向いて生きている。
時に同じように、失った仲間を思い出して同じように悲しんでいる。けれど、それをあえて口にはせずに、何事もないように話していることもある…と僕は勝手に思ったりしている。
ヨッシー先輩とは、あれから何度もふたりで飲んだり、ふとした瞬間にあの時の話をしたり、一緒に走ったり、泳いだり、バイクに乗ったりしている。
そしてあの人のことを、口に出したり出さなかったりして、互いに互いを思いやりつつ、悲しみを共有しつつ、互いに前を向いている。
人生の先輩であるヨッシーさんとは、ふたりで会うたびになんとなく、あの人の話になることが多い。それは多分、あの人が何か結びつけてくれているものがあるのだろうし、この2人でなら口に出して良いか、という雰囲気にもなるからだろう。
ことあるごとに、気にして声をかけてくれる。僕も何かあれば、メッセージしたりする。
トライアスロンをしなかったら、絶対に会わなかった人。一緒の時間を過ごさなかった人。それは、あの人も同じだ。
なんかの縁で会って、一緒の時間を過ごして、そしてかけがえのない経験をしている。
あの人も、そういう人だったと思う。
僕らはなぜか出会って、なぜか一緒の時間を過ごし、そうして想像もしなかった今を作り上げている。ヨッシー先輩も、そういう人だ。
なんという奇跡。
これはそうして生まれた、友情というものが作り出す現象なのだろう。
そう思うのだ。