歳を重ねると、あらゆるものが重くなっていく。
体重を筆頭に、自分が守るべきものや、仕事における責任や、その他諸々が。
しかし何より重くなっていくのは、腰。
重い腰をあげる、とは良くいったもので、これは加齢とともに際限なく重くなっていく。
つい先日、トライアスロン仲間と味スタ6耐リレーマラソンを走った。でもこれは仲間が病気になって代役で走ったのだ。そもそも予定に入れてなかった。というか、みんながそのイベントへの参加で盛り上がっているのをFacebookで知っていたのに、なぜだか自分は反応しなかった。
同様にその日の夜、友人のライブがあったのだが、それもみんながそのイベントへの参加で盛り上がっているのをFacebookで知っていたのに、なぜだか自分は反応しなかった。なのに、反応もできなかったし、参加もできなかった。
そして今週末は、サイクルモードという自転車のイベントがあったのだが、これも行こうと思っていたのに何のアクションもせず、実際にはでかけることなく休みを終えてしまった。
もちろん、それらに参加しなかったとしても、僕は今を生きているだろうし、明日へ挑戦しているだろう。
けれど、ふと心にとまるのは、そうした事を無意識に眺めてやり過ごしてしまった自分の、存在の耐えられない重さ、だ。
その時おそらく、気分がのらなかったのだろう。あるいは楽しい時間を想像できなかったのだろう。もしくは何もかもが面倒だったのだろうか?
いずれにせよ、僕の腰は重くて上がらなかった。
しかし、先に記したうちの1つの味スタ6耐リレーランは、とても楽しいものだったし、参加して良かったと思えたものだった。
そして友人のライブも、サイクルモードも、行ったら絶対に楽しかったことも間違いない。それは分かりきったことだ。
腰を重くする要素としての気持ちは、どこからからやってきて、スッと心の中に入って、そうすることが楽に思わせる。もちろん、そうして日々を過ごしても、悪いことは何もないのだろう。
けれど、それに抗って動くような気持ちは、実はとても大切なものだったりする。
それに気付く人もいれば、全く気付かない人もいて、その差は誰の目にもほとんど分からないものだったりする。
そしてもちろん、軽くない選択をしても良いことも多い。
けれど僕は、いつも軽くありたいと願う。
腰を上げて動くほどに、
フットワークが軽いほどに、
様々なものがインプットされていくこともまた真理だと思うのだ。
そしてインプットが多いと、必然的にアウトプットは面白いものになって、
そうしてまた思ってもみないことが生まれる、気がする。
そう思うと余計に、
軽くありたいと思うのだ。
まさに似たような経験が(^_^;)
40を過ぎて何かにチャレンジしたがっている反面、妙に腰が重くアクションに移行しない自分がいるのです。
朝ランもサボって久しく…まぁ、これは体調を崩したからというのもありますが。
軽くあること、私も心掛けたいマインドですね。